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モータージャーナリスト先川知香さんが観たiBのほんとうの姿

 
 
2020.08/31

 先川知香さんが観たiBのほんとうの姿  第10回

未来志向の内燃機屋さん「井上ボーリング」では、いったいどのような人たちが、どんな仕事をしているのでしょうか。実際に、インタビューをさせて頂きました。
 
インタビュー10人目は、社長の井上 壯太郎さんです。

代表取締役 井上 壯太郎(いのうえ そうたろう)さん


井上ボーリングの社長である井上さんと出会ったのは、ヴィンテージモトクロスという古いバイクのオフロードレースで、走れる IB-Ladyとして起用して頂いた事がきっかけです。
 
当時の私は、まだバイクでサーキットを走り始めたばかりの初心者で、バイクの魅力にどっぷりとハマり始めた頃でした。
 
「とりあえず、バイクに乗れる仕事がしたい」
 
モデルの仕事をメインに活動していた私は、大好きなバイクを仕事にする方法はないかということばかり考えていた気がします。そんな時、事務所のマネージャーから連絡がありました。

 
「知香ちゃん、バイクの免許持ってたよね?バイクで走れるイメージガールを募集している会社があるんだけど、エントリーしてみない?」
私の答えは、もちろん「やりたいです!」の一択。一切迷うことなく、二つ返事で答えたことを覚えています。
 
そんな経緯で知り合ったこともあり、私の持つ井上社長のイメージは、「挑戦したいと思う気持ちにチャンスをくれる人」でした。
 
そのイメージは、知り合ってからかなりの年月が経つ現在も全く変わらず、今でも私を含め、周りの人や従業員の「やりたい事」に耳を傾け、応援し続けてくれています。
 

 
 
そんな井上社長が代表を務める井上ボーリングは、元々は社長のお父さんが創業した会社でした。と言っても、子供の頃から当たり前のように会社を継ごうと思っていた訳ではなく、大学を卒業するギリギリまで、家業を継ぐことは考えていなかったそう。
当時は、女の子が多いという理由だけで明治学院大学の英文科に入学し、遊び重視の生活を送っていたそうです。
 
「僕は、今となっては英文科に行ったことは正解だと思っているんです。」
 
当時は安易な気持ちで選んだ大学への進路でしたが、その結果が今の井上社長の思考の方向性を作り上げ、井上ボーリングの社風の基盤にもなっていると社長は話してくれました。
 
「理工学部や工学部など、今の会社に通じるような学科を選択していたら、会社に入ってからも、そういった研究を一所懸命やっていたと思うんですよ。
でも、僕は文学部を出ているので入社当時、業務に関する事は何も分かりませんでした。
 
と言うのも、内燃機屋の仕事を親父が始めた当時は、とてもいい着眼点で始めたと思うんです。
2次世界大戦が終戦した 8年後、車どころか庶民は自転車を持つことすら精一杯という時代に創業し、これからクルマがどんどん増えていく事は明確な時代でした。
 
しかも、当時の車は 1万キロを走るとエンジンがどんどん減ってしまい、ボーリングは必須。毎年車検の前にはエンジンをボーリングするというのが当たり前の時代だったんです。
そのため、各家庭にクルマが行きわたり、企業もみんな車で活動するという時代になれば、仕事は無限にありました。
 
ところが、僕が大学を出て会社を継ぐ頃には実は既に斜陽産業で、どんどん内燃機屋が潰れていく時代になっていました。自動車技術が発達したことで、エンジンのピストンリングにハードクロームメッキが採用され、エンジンが減らなくなってしまったんです。」
 
これは、現在の 2ストバイク用エンジンボーリングのパイオニアとしての井上ボーリングの姿しか知らない人たちにとっては、想像もできない話だと思います。
 
「もし、僕が工学部などを出ていたら、量産の仕事の効率化を追求する事でコストダウンをおこない、もっと多く仕事を取ろうという方向に走っていたと思うんです。
 
工学部系の人たちはものすごくこだわりが強く、専門家としての知識は豊富ですが、視野が少し狭い人が多い傾向にあります。
でも、ボーリング業界自体が斜陽産業となっている今の時代に、技術的な工夫をしても未来は開けなかったと思うんです。
 
一方で文学部は、何を研究対象にしても構わないので、人間が居さえすればそれは全て研究対象。だから、文学を学んできた僕が会社を継いだことで、技術的工夫をするという方向性には目が行きませんでした。」
 
私がこの話を聞いて感じたのは、「そうかな?」という感想でした。
確かに、理系思考の人たちは、頭が良く専門性が高い反面、少し視野が狭いかもしれないという認識は大きく間違っていないと思います。
私が違和感を持ったのは別の部分。
「女の子が多いという理由だけで、文学部を選んだ」というエピソードはいかにも社長らしく、いい意味でとても楽天的で自由な発想です。
 
将来の道筋を大きく左右するかもしれない大学の学部を、「女の子が多い」という理由だけで決定できてしまう。この、「楽しそうな方を選べばいいじゃん」的な考え方が、今の井上ボーリングを作り上げていると言っても過言ではありません。
 
だから私は、当時の井上社長が女の子以外の部分に興味を持って工学部を選んでいたとしても、今とは違った専門性の高い方向で、やはり新しい道を切り開いていっていたんだろうなと想像してしまいます。その発想力こそが井上社長のアイデンティティであり、魅力なのです。大学で学んだ環境ぐらいで、そう簡単に変えられるものではありません。私の知っている井上社長は、そういう人物です。
 
「だから僕は結局、『人間て何だろう?』という話から、『人は何故オートバイに乗るんだろう?』というところに考えが行くわけで、『オートバイの楽しみ方ってこういうことかな?』、『古いオートバイにはどういう価値があるんだろう?』という風に考え、『ボーリング屋は何をすればいいんだろう?』という視点でものを考えることが出来たから、今でも他の内燃機屋が考えもしないようなことが出来ているんです。
 
と言っても、当時の僕は水上スキーに夢中で、全然学校に行きませんでしたけどね。大学は、 5年行ってるし。水上スキーばっかりやっていて、留年しちゃったんですよ(笑)」
 

 
ここまでの社長の話を聞いて、私は確信します。「ほら。やっぱり文系や理系の話は言い訳だ(笑)」
 
井上社長は大学の水上スキーサークルで奥様の尚子さんと出会い結婚を考えるも、当時は全く勉強をしていなかったこともあり就職活動を諦めて、「親父の会社に潜り込めば何とかなるかな?」と考え、井上ボーリングへの入社を決めたそうです。
 
「本当は水上スキーのコーチになりたかったんですけどね、日本にはそういう職業は存在しないんです。」
 
しかし、大学の学部選択と同じく安易な理由で入社を決めた社長は入社後、初めて会社の潰れそうな現状を知ることになります。
 
「企業に重要なのは人・モノ・金とかよく言うでしょ?でも、職人としての腕がある人は沢山いたんだけど、会社を動かそうなんて人はいないし、借金だらけで、汚くて古い機械があるだけ。正直、何もありませんでした。
 
こんな会社がどうして潰れないんだろう?と疑問なぐらいの状態で、だから自分で営業に出ることを買って出たんです。」

そういう経緯で外回り営業を始めた当時の井上社長は、ホンダレーシングの仕事を受注。市販レーサーである RS125用シリンダーの機械加工を可能にしたことで、ホンダ製 2ストロークエンジンシリンダーの補用部品の加工依頼が全て井上ボーリングに入るようになりました。
それにより、傾いていた会社の経営を一気に立て直すことができたのです。
 
そんな順風満帆とも言える時期に、先代から現在の井上社長に世代交代をするのですが、 2000年に 2ストエンジンの生産が終了。同時に、仕事も緩やかに減少傾向となってしまいます。
 
次回へ続く。
 
 
 

 

文/モータージャーナリスト 先川 知香