足元のトリックスキーの下を流れ去っていくのは、本当はそれほどきれいな水ではないはずなのだが、こうして水面に滑りだしみてると、そうは見えない。マークルーザーの260HPエンジンが、僕の前、十数メートルのところで低い唸り声をあげているにもかかわらず、僕の目に写る光景は不思議に静かに沈んでいて、正午に近い太陽が水面に乱反射して美しい。初夏なのだ。
前に目をむければ、柔らかくしかも力強く、僕を引いて白い曳波を蹴立てているスキーノーティクのはるか前方には、大きな水門が霞むように連なって、この利根川を堰き止め、ウォータースキーをするには絶好の水面環境を作りだしている。水面は両岸の土手まで広々と広がり、他には走る船もなく、ただ、さざなみがきらめくばかりだ。
僕は突然に、自分が世界の中心にいることを発見する。それは以外にも、今自分が滑走しているこんな河の上にあったのだ。青くて広い河の真ん中に僕は一人で、空に向かって突っ立っている。
たぶん、僕は夢を見ているのかもしれない。風も吹かず、暖かくて、ボートの曳波は奇麗な形をしている。ボートのスピードは先程から、僕の好みにピタリと合ったままだ。岸では仲間もみんなそろって、僕のプレイを祈るように見つめている。
ボートの助手をしている女のこが、緊張した表情で僕にスピードのサインを求めてくる。僕は彼女に大きくOKのサインを返す。大丈夫。みんなうまくいってるよ。きっと僕は、往復とも20秒間を完走してしまうよ。彼女も少しはにかんで微笑みをかえしてきた。
ゲートのブイが僕の傍らを通過する。僕はゆっくりとスキーに回転を与えはじめる。同時にホイッスルが鳴らせれ、ストップウォッチのノブは押され、永遠のような20秒間がはじまる。トリックは慌ててしまってはダメだ。何が起こっても最後の瞬間までクールに堂々とプレイを続ける。自分のプレイのリズムを忘れないように、今まで練習してきたとおりに忠実にこの場で再現してみせれば、それでいいのだ。競技だからといって、いつもと違うことをやろうとするようではまだまだ。そして、ある演技をやるその瞬間にはその演技のポイントだけを考える。少しでも、タイムのことや、終わってしまったプレイのことを考えてはいけない。それが集中力だ。
20秒間、僕は何も考えない。ただ、種目ごとに、「膝!」とか「視線!」とかいったコツだけを頭の中で念じる。それに種目ごとのリズム。このリズムを崩しさえしなければ、20秒間に僕のプログラムは全部おさまるのだ。
ボートのある風景とボートのない風景が交互に僕の目に写り、全部で12種類のイメージが頭の中を通り過ぎ、僕のからだがそれと同じ感覚でいっぱいに満ちたとき、僕はもと通り、前を向いて滑走している自分に気づく。周りの風景に何ひとつ変わったことはない。水門は霞むように立ちはだかって、正午に近い水面はグラスだ。紺色の透明な空が大きく広がっていて、その下に緑色の土手にはさまれた河が、鈍く陽光に輝いている。僕は180度回転して、今滑ってきたコースを眺めている。曳波は両側に広がってしまって、航跡の白い泡がわずかに残っているだけだ。赤いブイが4つ奇麗に直線に並んでいる。今、そこには何も無い。だが、その前の20秒間、そこで何かが行なわれたらしいことは、土手から沸き上がる歓声をきけばわかる。
僕は前を向く。頭の中で計算してみるまでもない。僕は往路のプログラムを完走したのだ。もう勝ったも同じだ。うまくいけば自己新記録を出せるかもしれない。
ボートが復路のコースへはいるために大きくターンする。少しエッジを立ててついていくと、景色はすこし斜めになって横に流れていく。スキーを通してボートの航跡の泡立ちを感じる。ロープを少し手繰って、バーを腕にかけ、右手で河の水をすくい、口に含んでみる。生暖かい、少し味のある河の水だ。僕は噴水みたいにピュッと水を吹き出す。助手席の女のこが笑いだす。突然、僕の胸の中に歓喜が沸き上がってきた。僕はこの河の王様だ。トリックスキーをはいて、この河面を滑るかぎり、僕は神だ。水面の抵抗に研ぎ澄まされて、ギリシャ神話の彫像のようになってしまった僕のボディーは力に満ちている。今、僕が水面を歩き、そこで起こした奇跡は、みんなが見ていた事実だ。誰も僕を倒すことなんてできない。僕は叫びだしたい衝動をこらえながら、岸に向かって拳を突き上げた。沸き上がる拍手と歓声。
さあ!セカンドパスだ!
Sotaro Inoue
井上壮太郎
SOTAROS@ocean.or.jp戻る